2009年10月12日月曜日

土屋ゼミ修士太田 修了制作へ向けて 10月第2週

方向性は悪くないのだが、まだ選んでいる場所の場所性を生かしきれていない、という話が今週のゼミでの話でした。

もっと場所性のある(というか場所の要素を扱い易い)スポットがある筈だ!

そう思い、今週はまた違う場所で考えてみました。

その1




ムサビ内で特徴的な外壁デザインの一つ、7号館の吹き抜け部分に擬似空間を!

「その1」の場合は教室拡張という事で7号館の教室の外壁を仮設で作る(当然中に入る)。

単純に普段行けない場所から風景をみるという方向がつよいです。

場所に関しては、ムサビの特徴の一つである7号館の外壁デザインと、中心的な中央広場、でっかくヴォイド空間になっている部分との関係性が1/100模型で俯瞰して見たところ気になったので。

教室拡張案はぱっとした思いつきでもあるのですが、このあたりでも可能かな。。。




ただこの教室拡張案はただのカムフラージュに留まっているし、内部空間の事も全く詰められていません。

そして その2



場所は同じなのですが、外から見るとただの工事現場。(青いのはブルーシートのつもり)。

そしてGLから足場を上って行って内部に入ると。。。




なんと擬似的な外部になっている!内部に入った筈なのに外部にいる?!外部から窓をのぞいた筈なのに外の風景が見える?!

内と外という変換も加えて、そこから風景を見るものの立ち位置をずらし、風景を見る上での独自の距離をみるきっかけになるのでは?

ただ、この場合作り上げる擬似外部を本物にするには?実際に作れるの?等々問題は山積みです。。。

2009年10月4日日曜日

土屋ゼミ修士太田 修了制作へ向けて

修了制作へ向けて、プランとともに場所決めもしなければならないので、このブログに候補地やラフスケッチ、コンセプトや方向性を随時アップしていきます。
僕は風景をテーマに研究を進めてきた。その中でも、特に(自分の中の原風景でもある)郊外の類型化された風景を「私の風景」として愛するためにはどうしたら良いか?という疑問にフォーカスをあてて考えていた。
類型化された風景のスケッチや郊外風景の中を歩いて旅する事で、風景とはその風景を物理的に変えてしまうことではなくて、そこと対峙する我々の感情によって、記憶や気分の受け皿としての「私の風景」になるのだという結論を打ち出した。

そして、修了制作では今度はそれを表現としてどう落とし込むか、という問題になる。そのためのキーワードや展示場所、アイデア等々を以下に綴ります。


先生との話から出てきたキーワードの話。



・風景→同じ風景、日常なのに、違うものに感じる。それは我々側の立ち位置の問題。



・見ているようで見ていない部分の再発見。


・建築と絡んで、建築を遊ぶような回答。ex. 西野達のような。既存の建築要素(例えば壁)を家具という別の要素に読み替える。




・建築の「部分」にフォーカスをあてる。











・そこの風景を「どう見るか」。


・切り取られた「絵」としての風景を扱う。窓との違いは?


・風景との(自分の)距離


・日常的な風景・空間の、見慣れた、見慣れたからこそ気づかなかった魅力の再発見。


・新たな価値観を見出せるような仮説空間。ex. ダニーカラヴァン、中瀬康志




・大学という特殊な空間で何にフォーカスを当てるか?


・開けた風景を見せて違うものに感じさせるか?


・切り取られた部分にピンポイントにフォーカスをあてて違う意味を与えるか?


・イメージスケッチ&場所
その1
西野的方向
・大学構内の建築の「部分」にフォーカスをあて、普段見ているようで見ていない場所の見せ方をする。
・同じいつも見ている物のはずなのに、違う物に見えてしまう。








・構内の古い建築物の外壁にある修復した跡を囲って抽象絵画の様に。
・問題点として、壁を壁のまま見せても普通である。壁を別の家具の様にしなければ面白さが少し浅い。
ex. ひさしを机のように.....。
・ただ、それだと西達っぽすぎる。また、規模として西野を超えるのが難しい。

その2
例えばこんなアイデアの場合







建築物の窓のひさしを机として.....。西野っぽすぎますね。


その3
もう一つのアイデア。



一号館にあるこんな吹き抜け。井口が卒制で使った場所のすぐ近くです。



上から見るとこんな感じ。

そこに風景を見る装置を。



吹き抜け部分はこんなイメージ。二階の廊下の窓から出て階段を上る感じです。



上にはこんな装置が.....。

こっちは、ダニーや中瀬作品のように、切り取られた奥の風景を見る装置です。そこに行き着くプロセスとして廊下の窓から出て仮設の階段を上って見に行く。

ただ、今のこのアイデアで問題なのは、ダニーや中瀬さんのようにその場所の文脈と作品を設置する上で持ち込まれる文脈等々がいまいちはっきりせず、単なる展望台のデザインのように思えます。

まだしぼれていない気がしますが、ピンポイントに建築の部分に注目して意味を組み替える方向だとどうにも西野を超えられないので、切り取られたその先の風景を見る装置のアイデアの方が有力でしょうか.....。

まだまだ思案とスタディが必要です。

その4
イメージスケッチとしてはこんな感じです。



囲われた空間の奥には切り取られた現実の風景が。壁や天井などにパースをつける事で距離に気づかせる。



この空間は屋上にあって、ムサビの先の住宅街を見せる。そこへのアプローチは、



この建築の吹き抜けから仮設の足場を上って行く。既存の橋のような通路を巻き込みながら。

その5
装置の中(人と風景の間)に水面を配置!!

水面の揺らぎで風景との距離感が意識される?

空が!水が!風景が!!

今の自分にとっての問題意識としては、場所の必然性が薄い、というところです。

場所の必然性として一つ思っているのが、この屋上の箱が僕の実家の方向を向いている、ということです。

う〜ん.....。段々と自分一人では判断がつかなくなってきました.....。仮にこれでいくとすれば、許可をとるために相当大変だろうな.....。がんばらねば。

2009年7月2日木曜日

今週のドローイングです。

例によって今までのと並べて表示します。


                                 


ちょっと変則的な事をやってしまいました。

たまたま町中に落ちていた漫画雑誌に、その場所の風景を描いたのです。

今までのように画用紙にガッツリと描く事と同時並行的に、画用紙には無い、指示体に現場性を求めたいと思ったのです。

メインに画用紙スケッチを行いながら、こっちの、その場に落ちていたモノに描く、というのもやり続けたいところです。


太田遼

2009年6月26日金曜日

新たに二枚のスケッチが増えました。

今までのと同時に並べます。
 
                               


新たに、コインパーキングの夜景とセブンイレブンのある風景を書きました。

コインパーキングの夜景は、描いてみると看板の主役感が非常に強くなった気がしました。

実際の風景でも、夜の街は、光っている者の主役感は昼間よりも出ているようにも思います。
一言で風景と言っても、時間帯のような流動的な要素によって違うものに見えるという事が改めて実感できたように思います。

セブンイレブンの風景は、まさに何処にでもありそうな、という感じです。
注目される事を前提にしている看板なのに、その手前に電線が通っている。その関係性が気になり、足を止めて描きました。

「看板」と「電線」、この二つが、今回のキーワードということになるかな。。。。。



そして、前回先生から参考にするように言われた「DE CHIRICO」の画集を買いました。

前から存在は知っていたけれど、じっくりと見た事はありませんでした。




完全に僕の解釈ですが、キリコの絵画に登場するいくつもの要素は、バラバラに存在していて相関していないといった印象を得ました。

相関していないというか・・・・・関係はしあっているんだけど・・・・・。

そう、主役がいない、と言った感じです!

広場に横たわっている像も、手前の建物も、奥の汽車ぽっぽも、それぞれが同じ存在感で画面上に存在しているという感じ。

確かに空間的には石像の方が遠くの汽車よりも存在感が強いはずなのに、彼の作品の中ではたとえ遠くても遠くないのです!

この主役のなさ、それこそが僕の感じた”郊外”の要素につながるではないか!

そんなことを思い、一人テンションが上がっていたのです。。。

これらは完全に僕の感想ですが、土屋先生のキリコから始まった話はかなりすばらしく、僕は泣きそうになってしまいました。。

先生いわく、「未来派に属するキリコだが、この未来派の位置づけとは、その後にアルテポーヴェラへとつながる時代にある。

そんなキリコの作品に頻繁に登場する汽車、これは当時の近代化の象徴であり、便利さや移動性の獲得に奔走していた当時の社会に対するある種の批判である。

その後のアルテポーヴェラの作家たちの思想は、(例えばクネリスのギャラリーに実際の馬を連れ込む作品や石炭のインスタレーション)まさに未来派(キリコ)からつながるものである。すなわち、この時代の人間性に対する懐疑性(ちょっと言葉がへんかも・・・)。

太田に未来派をあえて見せたのは、絵として、対象の現実の時間を停止させている事もさることながら、そのような美術の流れを知って欲しかったからだ。

かつての美大生には芸術とはこうあるべきであるというセオリーがあったが、現在それが崩壊して非常に曖昧になってしまった。だからこそ目指すべき未来も消失してしまったのだ。
しかし、だからといって、前の時代と繋がれない訳ではない。

また、未来を作っていくために、たとえば、
 海外のワークショップなどで非常に多民族な人々と関わる事になると、考えの多様さを目の当たりにする。それはつまり、自分に対する疑問に繋がるのである。
この疑問のためには、そもそもの覚悟が必要だ。

それは、「制作という戦い」に挑むための覚悟なのだ。

戦いである以上は、血を流さなければならない。生き残っている作家たちは、例外無く作品のために多くの血を流している。

その覚悟が果たしてできるのだろうか?
少なくとも、未来の目的のためには、その覚悟を宣言する必要があるのだ。」


要約するとこんな話でした。

このところ、先生がかなり深い話をたくさん僕にしてくれるので、最近先生に反論する事が全くできなくなってきました。

それもそのはず。土屋先生の長い作家人生から得たリアルな哲学を、先生自身の言葉で語ってくれているので、まだほとんど外部からしか見ていない僕が反論できるはずもありません。

これから、一体僕はどんな哲学を得る人生を送るのだろう。大きすぎる不安と小さな希望が僕の中に共存している感覚です。

あまり締めがうまくないですが、今回はここまで。

また長々と綴ってしまいました。。。


太田遼