2009年6月26日金曜日

新たに二枚のスケッチが増えました。

今までのと同時に並べます。
 
                               


新たに、コインパーキングの夜景とセブンイレブンのある風景を書きました。

コインパーキングの夜景は、描いてみると看板の主役感が非常に強くなった気がしました。

実際の風景でも、夜の街は、光っている者の主役感は昼間よりも出ているようにも思います。
一言で風景と言っても、時間帯のような流動的な要素によって違うものに見えるという事が改めて実感できたように思います。

セブンイレブンの風景は、まさに何処にでもありそうな、という感じです。
注目される事を前提にしている看板なのに、その手前に電線が通っている。その関係性が気になり、足を止めて描きました。

「看板」と「電線」、この二つが、今回のキーワードということになるかな。。。。。



そして、前回先生から参考にするように言われた「DE CHIRICO」の画集を買いました。

前から存在は知っていたけれど、じっくりと見た事はありませんでした。




完全に僕の解釈ですが、キリコの絵画に登場するいくつもの要素は、バラバラに存在していて相関していないといった印象を得ました。

相関していないというか・・・・・関係はしあっているんだけど・・・・・。

そう、主役がいない、と言った感じです!

広場に横たわっている像も、手前の建物も、奥の汽車ぽっぽも、それぞれが同じ存在感で画面上に存在しているという感じ。

確かに空間的には石像の方が遠くの汽車よりも存在感が強いはずなのに、彼の作品の中ではたとえ遠くても遠くないのです!

この主役のなさ、それこそが僕の感じた”郊外”の要素につながるではないか!

そんなことを思い、一人テンションが上がっていたのです。。。

これらは完全に僕の感想ですが、土屋先生のキリコから始まった話はかなりすばらしく、僕は泣きそうになってしまいました。。

先生いわく、「未来派に属するキリコだが、この未来派の位置づけとは、その後にアルテポーヴェラへとつながる時代にある。

そんなキリコの作品に頻繁に登場する汽車、これは当時の近代化の象徴であり、便利さや移動性の獲得に奔走していた当時の社会に対するある種の批判である。

その後のアルテポーヴェラの作家たちの思想は、(例えばクネリスのギャラリーに実際の馬を連れ込む作品や石炭のインスタレーション)まさに未来派(キリコ)からつながるものである。すなわち、この時代の人間性に対する懐疑性(ちょっと言葉がへんかも・・・)。

太田に未来派をあえて見せたのは、絵として、対象の現実の時間を停止させている事もさることながら、そのような美術の流れを知って欲しかったからだ。

かつての美大生には芸術とはこうあるべきであるというセオリーがあったが、現在それが崩壊して非常に曖昧になってしまった。だからこそ目指すべき未来も消失してしまったのだ。
しかし、だからといって、前の時代と繋がれない訳ではない。

また、未来を作っていくために、たとえば、
 海外のワークショップなどで非常に多民族な人々と関わる事になると、考えの多様さを目の当たりにする。それはつまり、自分に対する疑問に繋がるのである。
この疑問のためには、そもそもの覚悟が必要だ。

それは、「制作という戦い」に挑むための覚悟なのだ。

戦いである以上は、血を流さなければならない。生き残っている作家たちは、例外無く作品のために多くの血を流している。

その覚悟が果たしてできるのだろうか?
少なくとも、未来の目的のためには、その覚悟を宣言する必要があるのだ。」


要約するとこんな話でした。

このところ、先生がかなり深い話をたくさん僕にしてくれるので、最近先生に反論する事が全くできなくなってきました。

それもそのはず。土屋先生の長い作家人生から得たリアルな哲学を、先生自身の言葉で語ってくれているので、まだほとんど外部からしか見ていない僕が反論できるはずもありません。

これから、一体僕はどんな哲学を得る人生を送るのだろう。大きすぎる不安と小さな希望が僕の中に共存している感覚です。

あまり締めがうまくないですが、今回はここまで。

また長々と綴ってしまいました。。。


太田遼

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